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お彼岸にちなんで 気になる事を書きます
般若心経とは 言っても 要するに 日本語の解釈の問題点のプレゼンですので ヤングなあなたも 読んで見て下さいね
<span style="font-size:large;">般若心経解釈本の疑問点</span>
般若心経のやさしい解釈本だけを10冊ぐらい読み比べてみたところ 仏教とは無関係の一般人である立場の私でさえもが 【ココの解釈説明は仏教解釈ではなくて 日本語への和訳として間違いではないのか?】と気付いた点があるので 取り上げてみました
10冊ほどの本は仏教専門家が 一般人向けに易しく説明した本ばかりです
仏教に携わる人向けに 専門的に解説した本は含めません
ですから このWebPageの私の主張は心経の仏教解釈そのものを論じるのではなくて 一般書物を読むのと同じ観点から……【心経の解釈・和訳と唄いながら 解釈しているのではなくて 心経の矛盾する文章部分を 単に 矛盾している~と指摘しているに過ぎないのではないのか?】……と問題提起するのです
私は 社交ダンスが道楽趣味の一般人であり 仏教には関心がありません
ですが 般若心経だけは 良く目にするので読んでみたのです
10冊読んだら 共通的に 間違いじゃないかしら? と感じる部分がありました
社交ダンスのリバテクにも 間違いと思える部分があるので 後日に取り上げますが このPageも 仏教の専門的な論説ではないので 皆さんも 気楽にちょっと私の主張に 目を通して下さい
般若心経は 全部で136文字です
私が問題視するのは 16文字の部分だけです
無無明亦無無明尽(むー・むー・みょー・やく・むー・むー・みょー・じん)
無老死亦無老死尽(むー・ろー・しー・やく・むー・ろー・しー・じん)
※ お経を唱える時の発音は 1文字分を同じタイム・ヴァリュー(time value)に タイミングを取りながら 音読みするのです
普通に読む時には
無明(むみょう)→迷いの意味
老死(ろうし)→年老いて死ぬ事の意味
和訳する時の読み方は 漢文のやり方です
無<sub>ク</sub>無明<sub>ガ</sub>亦無<sub>イ</sub>無明<sub>ガ</sub>尽<sub>キルコトモ</sub>
無明がなく 又 無明がつきる事もない
無<sub>ク</sub>老死<sub>ガ</sub>亦無<sub>イ</sub>老死<sub>ガ</sub>尽<sub>キルコトモ</sub>
老死がなく 又 老死がつきることもない
以上の漢文の読み方は 10冊の本に共通しています
→ですから この読み下し方は 正しい筈です
解釈については 本によって異なり 2通りに分類されます
かいしゃくの2分類
1)滅すべき無明(迷い)がないのだから 当然に・必然的に 無明(迷い)が つきるということも あり得ない
2)迷いがなく 迷いがつきた状態の悟りもない
→迷いもなければ 反対の悟りもない
※ 【無明尽(むみょうじん)】の解釈の違いから 2通りに分かれているわけです
1)迷いがなくなる事
2)迷いがなくなるのではなくて 迷いの反対語即ち悟り
私の主張
2)については
(つきることはない)と読んでいながら 無明尽を【悟り(さとり)】と解釈する事は 不自然で不適切と考えます
つきる(なくなる)ことはない→と読んだ時の意味は 2重否定と考えて 【なくならない】→【必ず存在する】と 解釈する方が 自然であり 適切だと考えます
【つきる】を 存在の否定と考えて二重否定になるから 肯定の強調と考えるわけです
1)については
無明が ない
無明→A とする
ない→B とする
A は B である
無明が つきることはない
無明→A
つきる事はない→なくなる事はない→なくならない→常に存在する
(つきる)とは (なくなる)事を意味する
(なくなる)とは (存在する)に対する否定の意味
(つきることはない)とは (なくなることはない)即ち(なくならない)の意味
→つまり 二重否定である
二重否定は 肯定の強調である
だから 【つきる事はない】は 【必ず存在する】の意味です →B の否定です
→B ではない
無無明亦無無明尽
→AはBである また AはBでない
滅すべき無明がないのだから(AはBであるから)当然に・必然的に 無明がつきるということも あり得ない(AはBでないと 言う事はあり得ない)
※ この解釈説明文は 解釈しているのではなくて(和訳しているのではなくて)只単に (AはBである)と(AはBでない)とが 矛盾している~~と文章を論理学的に・文法的に 説明しているに過ぎない………と私は 考えます
経文の解釈は 文法的に意味の通らない文章であると 指摘する事ではなくて 経文の文をそのまま受け容れて 矛盾の文をそのまま受け容れて なぜゆえに 矛盾と分かる主張を 経文がしているのか?………を説明する事が 本来の解釈の筈です
迷いがなく 又 同時に迷いはなくならない
→迷いは ないと同時に 迷いは存在し続ける
この矛盾する文章を そなままに経文として正しい文章と前提した上で それでは どのように解釈したら良いのか?
………この点を 一般人に理解出来る言葉で 説明してくれる事が 本来の【解釈】と云うことじゃ ありませんか?!
←これが 私の主張です
矛盾している事に関して(当然に)とか(必然的に)あり得ない←この解説文は 仏教専門家の著者の方々が 般若心経は 間違いだ……と言ってることに なりませんか???
般若心経は 始めの書き出しの方から 矛盾だらけの文章なのです
色不異空(しき・ふー・いー・くー)
空不異色(くー・ふー・いー・しき)
色(存在する物体と現象)は 空(実体のないもの)である
実体があるから目に見えているのに 空であると言う
この文だって 矛盾です
それなのに この部分に関しては 矛盾を指摘しないでそのまま受け容れておきながら 無明に関しては 矛盾を指摘しているわけですから 私が 【間違いでしょう】と主張するわけです
般若心経そのものは 数百年に渡り 仏教界に生き続けてきたものですから 正しいものだと考えられます
<a href="http://www2.gyojya.jp:8000/Flash/Good/oharai.swf" target="_blank">フラッシュ般若心経</a>
※とてもかわいらしい 読経画面です
般若心経とは 言っても 要するに 日本語の解釈の問題点のプレゼンですので ヤングなあなたも 読んで見て下さいね
<span style="font-size:large;">般若心経解釈本の疑問点</span>
般若心経のやさしい解釈本だけを10冊ぐらい読み比べてみたところ 仏教とは無関係の一般人である立場の私でさえもが 【ココの解釈説明は仏教解釈ではなくて 日本語への和訳として間違いではないのか?】と気付いた点があるので 取り上げてみました
10冊ほどの本は仏教専門家が 一般人向けに易しく説明した本ばかりです
仏教に携わる人向けに 専門的に解説した本は含めません
ですから このWebPageの私の主張は心経の仏教解釈そのものを論じるのではなくて 一般書物を読むのと同じ観点から……【心経の解釈・和訳と唄いながら 解釈しているのではなくて 心経の矛盾する文章部分を 単に 矛盾している~と指摘しているに過ぎないのではないのか?】……と問題提起するのです
私は 社交ダンスが道楽趣味の一般人であり 仏教には関心がありません
ですが 般若心経だけは 良く目にするので読んでみたのです
10冊読んだら 共通的に 間違いじゃないかしら? と感じる部分がありました
社交ダンスのリバテクにも 間違いと思える部分があるので 後日に取り上げますが このPageも 仏教の専門的な論説ではないので 皆さんも 気楽にちょっと私の主張に 目を通して下さい
般若心経は 全部で136文字です
私が問題視するのは 16文字の部分だけです
無無明亦無無明尽(むー・むー・みょー・やく・むー・むー・みょー・じん)
無老死亦無老死尽(むー・ろー・しー・やく・むー・ろー・しー・じん)
※ お経を唱える時の発音は 1文字分を同じタイム・ヴァリュー(time value)に タイミングを取りながら 音読みするのです
普通に読む時には
無明(むみょう)→迷いの意味
老死(ろうし)→年老いて死ぬ事の意味
和訳する時の読み方は 漢文のやり方です
無<sub>ク</sub>無明<sub>ガ</sub>亦無<sub>イ</sub>無明<sub>ガ</sub>尽<sub>キルコトモ</sub>
無明がなく 又 無明がつきる事もない
無<sub>ク</sub>老死<sub>ガ</sub>亦無<sub>イ</sub>老死<sub>ガ</sub>尽<sub>キルコトモ</sub>
老死がなく 又 老死がつきることもない
以上の漢文の読み方は 10冊の本に共通しています
→ですから この読み下し方は 正しい筈です
解釈については 本によって異なり 2通りに分類されます
かいしゃくの2分類
1)滅すべき無明(迷い)がないのだから 当然に・必然的に 無明(迷い)が つきるということも あり得ない
2)迷いがなく 迷いがつきた状態の悟りもない
→迷いもなければ 反対の悟りもない
※ 【無明尽(むみょうじん)】の解釈の違いから 2通りに分かれているわけです
1)迷いがなくなる事
2)迷いがなくなるのではなくて 迷いの反対語即ち悟り
私の主張
2)については
(つきることはない)と読んでいながら 無明尽を【悟り(さとり)】と解釈する事は 不自然で不適切と考えます
つきる(なくなる)ことはない→と読んだ時の意味は 2重否定と考えて 【なくならない】→【必ず存在する】と 解釈する方が 自然であり 適切だと考えます
【つきる】を 存在の否定と考えて二重否定になるから 肯定の強調と考えるわけです
1)については
無明が ない
無明→A とする
ない→B とする
A は B である
無明が つきることはない
無明→A
つきる事はない→なくなる事はない→なくならない→常に存在する
(つきる)とは (なくなる)事を意味する
(なくなる)とは (存在する)に対する否定の意味
(つきることはない)とは (なくなることはない)即ち(なくならない)の意味
→つまり 二重否定である
二重否定は 肯定の強調である
だから 【つきる事はない】は 【必ず存在する】の意味です →B の否定です
→B ではない
無無明亦無無明尽
→AはBである また AはBでない
滅すべき無明がないのだから(AはBであるから)当然に・必然的に 無明がつきるということも あり得ない(AはBでないと 言う事はあり得ない)
※ この解釈説明文は 解釈しているのではなくて(和訳しているのではなくて)只単に (AはBである)と(AはBでない)とが 矛盾している~~と文章を論理学的に・文法的に 説明しているに過ぎない………と私は 考えます
経文の解釈は 文法的に意味の通らない文章であると 指摘する事ではなくて 経文の文をそのまま受け容れて 矛盾の文をそのまま受け容れて なぜゆえに 矛盾と分かる主張を 経文がしているのか?………を説明する事が 本来の解釈の筈です
迷いがなく 又 同時に迷いはなくならない
→迷いは ないと同時に 迷いは存在し続ける
この矛盾する文章を そなままに経文として正しい文章と前提した上で それでは どのように解釈したら良いのか?
………この点を 一般人に理解出来る言葉で 説明してくれる事が 本来の【解釈】と云うことじゃ ありませんか?!
←これが 私の主張です
矛盾している事に関して(当然に)とか(必然的に)あり得ない←この解説文は 仏教専門家の著者の方々が 般若心経は 間違いだ……と言ってることに なりませんか???
般若心経は 始めの書き出しの方から 矛盾だらけの文章なのです
色不異空(しき・ふー・いー・くー)
空不異色(くー・ふー・いー・しき)
色(存在する物体と現象)は 空(実体のないもの)である
実体があるから目に見えているのに 空であると言う
この文だって 矛盾です
それなのに この部分に関しては 矛盾を指摘しないでそのまま受け容れておきながら 無明に関しては 矛盾を指摘しているわけですから 私が 【間違いでしょう】と主張するわけです
般若心経そのものは 数百年に渡り 仏教界に生き続けてきたものですから 正しいものだと考えられます
<a href="http://www2.gyojya.jp:8000/Flash/Good/oharai.swf" target="_blank">フラッシュ般若心経</a>
※とてもかわいらしい 読経画面です
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