忍者ブログ
MASTER →  ADMIN / NEW ENTRY / COMMENT
社交ダンス&リテイリング&ちょっと気になることエトセトラ
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

★刺青

中年のかさかさした看護婦が 若くて魅力的な看護婦に 興奮してささやいた

「受け持ちの盲腸患者は船員よ  全身に刺青をしているの  あの… あの… あの場所にまで」

「まさか あそこじゃないでしょうね」と美人看護婦は微笑しながら言った

「いいえ そこなのよ  そこに『アダム』って 刺青してあるのよ

「それは どうしても見て来なくちゃ」

若い看護婦は くすくす笑いながら船員のベッドに行った

30分後に 彼女は戻って来た

「おっしゃる通りよ  本当にあそこにまで 刺青してるのね  でも …『アダム』じゃなくて 『アムステルダム』だったわ」

★効果抜群

若い妻が医者の所に行って 結婚1年目なのに 夫がさっぱりサービスしてくれないと 訴えた

「問題ありません」と 医者は云った 「この錠剤をあげますから コーヒーに入れて飲ませなさい

ただし いっぺんに2錠以上はいけませんよ  素晴らしく効きますから」

2日後に もう若い妻がやって来た  かなり興奮しているように見えた

「おや どうしました もう1箱入用ですか?」

「いいえ 先生」と 若妻はどぎまぎしながら告白した

「効き目は素晴らしかったんです 夫は コーヒーカップを置いたかと思うと もう飛び上がって 私の服をすっかりはいで………」

「そら ごらんなさい」と 医者はうれしそうに云った

「ただ困ったのは あたし達 もう2度とその喫茶店に 行けなくなっちゃったことなんです」

★男の子

小さな女の子が 興奮して 風呂から出てきて 叫んだ

「ママ パパが 男の子だって 知ってた?」



出典

実業之日本社

関 楠生  編著    ドイツ・ジョーク集

PR
お彼岸にちなんで 気になる事を書きます
般若心経とは 言っても 要するに 日本語の解釈の問題点のプレゼンですので ヤングなあなたも 読んで見て下さいね

<span style="font-size:large;">般若心経解釈本の疑問点</span>
般若心経のやさしい解釈本だけを10冊ぐらい読み比べてみたところ 仏教とは無関係の一般人である立場の私でさえもが 【ココの解釈説明は仏教解釈ではなくて 日本語への和訳として間違いではないのか?】と気付いた点があるので 取り上げてみました

10冊ほどの本は仏教専門家が 一般人向けに易しく説明した本ばかりです
仏教に携わる人向けに 専門的に解説した本は含めません

ですから このWebPageの私の主張は心経の仏教解釈そのものを論じるのではなくて 一般書物を読むのと同じ観点から……【心経の解釈・和訳と唄いながら 解釈しているのではなくて 心経の矛盾する文章部分を 単に 矛盾している~と指摘しているに過ぎないのではないのか?】……と問題提起するのです


私は 社交ダンスが道楽趣味の一般人であり 仏教には関心がありません
ですが 般若心経だけは 良く目にするので読んでみたのです


10冊読んだら 共通的に 間違いじゃないかしら? と感じる部分がありました

社交ダンスのリバテクにも 間違いと思える部分があるので 後日に取り上げますが このPageも 仏教の専門的な論説ではないので 皆さんも 気楽にちょっと私の主張に 目を通して下さい


般若心経は 全部で136文字です
私が問題視するのは 16文字の部分だけです


 無無明亦無無明尽(むー・むー・みょー・やく・むー・むー・みょー・じん)
 無老死亦無老死尽(むー・ろー・しー・やく・むー・ろー・しー・じん)

※ お経を唱える時の発音は 1文字分を同じタイム・ヴァリュー(time value)に タイミングを取りながら 音読みするのです

普通に読む時には
 無明(むみょう)→迷いの意味
老死(ろうし)→年老いて死ぬ事の意味


和訳する時の読み方は 漢文のやり方です

無<sub>ク</sub>無明<sub>ガ</sub>亦無<sub>イ</sub>無明<sub>ガ</sub>尽<sub>キルコトモ</sub>

無明がなく 又 無明がつきる事もない


無<sub>ク</sub>老死<sub>ガ</sub>亦無<sub>イ</sub>老死<sub>ガ</sub>尽<sub>キルコトモ</sub>

老死がなく 又 老死がつきることもない


以上の漢文の読み方は 10冊の本に共通しています
→ですから  この読み下し方は 正しい筈です


解釈については 本によって異なり 2通りに分類されます

かいしゃくの2分類
1)滅すべき無明(迷い)がないのだから 当然に・必然的に 無明(迷い)が つきるということも あり得ない
2)迷いがなく 迷いがつきた状態の悟りもない
→迷いもなければ 反対の悟りもない

※ 【無明尽(むみょうじん)】の解釈の違いから 2通りに分かれているわけです

1)迷いがなくなる事
2)迷いがなくなるのではなくて 迷いの反対語即ち悟り


私の主張
2)については
(つきることはない)と読んでいながら 無明尽を【悟り(さとり)】と解釈する事は 不自然で不適切と考えます

つきる(なくなる)ことはない→と読んだ時の意味は 2重否定と考えて 【なくならない】→【必ず存在する】と 解釈する方が 自然であり 適切だと考えます
【つきる】を 存在の否定と考えて二重否定になるから 肯定の強調と考えるわけです


1)については
無明が ない
無明→A とする
ない→B とする

A は B である


無明が つきることはない
無明→A
つきる事はない→なくなる事はない→なくならない→常に存在する

(つきる)とは (なくなる)事を意味する
(なくなる)とは (存在する)に対する否定の意味

(つきることはない)とは (なくなることはない)即ち(なくならない)の意味
→つまり 二重否定である
二重否定は 肯定の強調である
だから 【つきる事はない】は 【必ず存在する】の意味です →B の否定です
→B ではない

無無明亦無無明尽
→AはBである また AはBでない


滅すべき無明がないのだから(AはBであるから)当然に・必然的に 無明がつきるということも あり得ない(AはBでないと 言う事はあり得ない)

※ この解釈説明文は 解釈しているのではなくて(和訳しているのではなくて)只単に (AはBである)と(AはBでない)とが 矛盾している~~と文章を論理学的に・文法的に 説明しているに過ぎない………と私は 考えます


経文の解釈は 文法的に意味の通らない文章であると 指摘する事ではなくて 経文の文をそのまま受け容れて 矛盾の文をそのまま受け容れて なぜゆえに 矛盾と分かる主張を 経文がしているのか?………を説明する事が 本来の解釈の筈です


迷いがなく 又 同時に迷いはなくならない
→迷いは ないと同時に 迷いは存在し続ける
この矛盾する文章を そなままに経文として正しい文章と前提した上で それでは どのように解釈したら良いのか?
………この点を 一般人に理解出来る言葉で 説明してくれる事が 本来の【解釈】と云うことじゃ ありませんか?!
←これが 私の主張です


矛盾している事に関して(当然に)とか(必然的に)あり得ない←この解説文は 仏教専門家の著者の方々が 般若心経は 間違いだ……と言ってることに なりませんか???

般若心経は 始めの書き出しの方から 矛盾だらけの文章なのです

色不異空(しき・ふー・いー・くー)
空不異色(くー・ふー・いー・しき)

色(存在する物体と現象)は 空(実体のないもの)である

実体があるから目に見えているのに 空であると言う
この文だって 矛盾です
それなのに この部分に関しては 矛盾を指摘しないでそのまま受け容れておきながら 無明に関しては 矛盾を指摘しているわけですから 私が 【間違いでしょう】と主張するわけです

般若心経そのものは 数百年に渡り 仏教界に生き続けてきたものですから 正しいものだと考えられます


<a href="http://www2.gyojya.jp:8000/Flash/Good/oharai.swf" target="_blank">フラッシュ般若心経</a>
※とてもかわいらしい 読経画面です
≪  1  2  3
HOME
忍者ブログ [PR]